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玉藻

玉藻

あしたづの姉弟

あしたづの姉弟


   文治二年。
 今年の春は、少しも晴れ晴れとした気持ちにならない、と健寿は思っていた。  八條院の女院御所で正月の晴れ着をきて居並んでも、いつも気軽に振る舞っている女院の御前には出ず、お開きの大盤所で白酒をいただいていても、少しも酔いは回らないし、ただ局に籠もりっきりだったのだ。
 いや、それ以上に気にかかるのは、誰彼の話声だ。耳を立て澄まして神経を尖らしているから、疲れは目一杯なのだ、と溜息をついた。

 そそくさと正月の行事を終えて、五条に帰ってはみたものの、いつも通りの貧乏ぶりで気が滅入る。なまじ建春門院の女院さまの所に、ご出仕申し上げていた昔があるだけに、今のつまらなさが身に沁みるのだ。
 遅めの雪は牡丹の花びらのように空から舞い落ちてくる。葎の宿というほどの荒廃はないけれど、玉のうてなでもないこの家の庭に、その雪は落ち、そしてすぐに溶けてしまった。
 (悔しい。)
 誰に対してそう思うのか、健寿は大きく溜息をついた。

「まあ、大きな溜息ですこと。」
 年の割には若やいだ母が、健寿の背中越しに小さく笑ってそういった。
「母上。」
 (この人は、何も感じていないのかしら)とそう思う。健寿はこんなにも弟のことで気を揉んでいるのにと、余計悔しくなる。
「溜息もつきたくなりますわ。母上。あたりまえでしょう。
 私たち姉妹が、どれほど朋輩から笑われ侮られているのか、おわかりくださいませんの。」
 そういったとたん、健寿の気持ちのたががはずれてしまった。あとはもう感情の波が引き返せないほど押し寄せてきて、誰にもとめられないのだった。
「え。ええ。え・・。」
 この母も今までの健寿の性格を知らぬ訳でなし、急に肩をすぼめて口ごもった。こんなときの健寿は手がつけられないのだ。
「こんなことになるなんて、私はもう、悔しくて悔しくて。昨年の五節より、自分がこんな惨めな思をするとは思ってもおりませんでしたわ。
 除籍ですのよ。除籍。殿上の御簡を削られたのですよ。まったくあの定は。」
「定、なんて。定家という名がございますのに。」
 健寿が不肖の弟のことを名の一字だけをとってそう呼ぶとき、怒り心頭であると母は知っていたけれど、少しだけ抵抗してみた。それほどこの定家が可愛くてしかたなかったのである。

「定で充分です。
 母上も、女院さまのもとでお仕えなさっておられたから、おわかりでしょう。私たち姉妹の肩身の狭さ。皆様のあけすけな笑い顔が今でも目に浮かびます。それもこれも、あの子がとんでもないことをしでかしてくれたせいですのよ。
 だいたい、あの子は気は小さいくせに、すぐ堪忍袋の緒を切ってしまって、だだをこねたり、臍をまげたり、逆恨みしたり、挙げ句の果ては暴力です。もう、いい加減大人なのですから、その辺のさじ加減がわからないのは致命傷です。
 まったく、何も五節の席でからかわれたくらいで、少将殿の冠を打ち落とすとは。我が弟ながら恥ずかしくて、呆れますわ。」
 一気にまくしたてられて、この母には二の句がつげられなかった。本当にその通りだからだ。
「父上は子供同士の戯れ事みたいなものだから、なんて気軽に思っておられますけど、女院さまの御所では、あの子が少将殿の面を打っただの、紙燭で殴っただの、言われておりますのよ。その上、今だに還昇のお許しがないのは、殿上で太刀を抜いて斬りかかったからだなんて、大嘘もまかり通っているのです。いくらなんでも、滅茶苦茶な話ですけど、人の口とはそういうものです。
 女院さまのお正月の話題は、みいんなあの子のことと、三位局殿の恋愛話ばかりです。あちらは、おさかんで結構なことで頬も紅らみますけれど、うちは恥で顔から火が出ます。
 姉上もいたたまれなくなって、中御門に引き込んおられますし。私も人様が聞こえよがしにひそひそ話なさっておられると、我が弟のことではないかと寿命が縮みますわ。
 それもこれも、母上があの子のことを甘やかして猫かわいがりするからですわよ。
 昔から軟弱ですぐ風邪をひいては、苦しいとかもう死ぬとか、うるさいったらありゃしない。男なのですから、少々のことでは病になんぞかからぬよう日々体を鍛えておくべきです。
 そのくせいい加減な生活態度を改めないから、始末が悪いのですわ。この間もふらっと夜歩きをして、また具合が悪くなったと泣き言を言ってきて。
 私が親切心でいろいろ意見をしたら、『そんなにきついことを、病人に言わないでくださいよ。』だなんて、恨めしそうな目つきで言うのですよ。」
「病のときは、気がよわっておりますから。少し優しくしてやってくださいな。」
 母の言葉ももっともであるが、健寿は収まらない。何を言っても聞き入れてもらえないのかと、また大きな溜息をつき、
「父上も母上もあの子には甘いから、私がこんな嫌われ役をつとめなければならないのです。私だってあの子が憎くて言っているのではありませんわよ。
 本当に頼りないったら。」
と吐き捨てる。
 生まれつきそうなのか、健寿は弁が立った。その上明朗な性格で、人付き合いが好きで、宮の御所に上がることは苦でなかったのである。
 定家の年いった両親は、すでに出家して写経や物詣に余生を送っているので、これぞという後見には、いつも健寿が甲斐甲斐しく世話をやいてきた。本来面倒をみる妻との夫婦仲の芳しくないのも、健寿には気にいらないことだったが、妻の方に落ち度がなくて、多分弟のわがままぶりに嫌気をさされているだろうと推測できるのだから、もっていきようもない。更に、母はそんな定家が余計に可愛くみえるようなのだ。

 確かに、この年にしては母は美しく、自分の年の離れた姉くらいに若々しく見える、と久しぶりに対面してみて、そう健寿は思った。だから定家がいつまでも乳離れしないのだろうかと。
「歌のことで、気に障ることを言われたようなのです。年下なのに官位が上と言うのも、前から気になっていたらしくて。
 入道殿もなんとか、還昇のお願いにあちらこちらへ参られますし、そのうち・・」
 弱々しく返す母に、またも健寿は食ってかかった。
「歌のこともそうですわ、あの子ったら情けない。
 出来た歌に自信がないのか、父上に添削してもらい、母上にはこれで良いですかと持ってきて。私にまで意見を聞くのですよ。この間など、隆信様や寂蓮様にまで持っていってご一読いただいたとか、あちらこちらにご迷惑をかけて。
 そんなことであちこちするくらいなら、自分で還昇のお願い回りをすればいいのに、あのお年の父上が苔の衣で、肩代わりの挨拶回りなんて酷い話ですわ。」
「そ、それは・・・」
「あの子ったら気位ばかり高くて、こういうときの人脈もないのですよ。
 お出入り先もちゃんと決めておけば、それなりに便宜を図ってくださる方もおられるのです。
 それを人に媚びへつらうのは嫌だとか何とか言って、格下の相手には見向きもしません。それ以上に格上の方にまで、平気に振る舞うのです。
 こんなことでは、この先どうなってしまうのか。
 母上の方からも、ご意見いただかなくては、このままいったら面目なくて、出仕どころか還昇のお許しもないまま、出家してしまうしかなくなるのですよ。こんな菩提心もないままの出家なんて、罪ばかりが添ってしまいます。
 右京の大夫様の姫のことでもそうです、あちらでは呆れておられるのではありませんか。そのくせふらふら、どこに通っているのやら、あちらこちらに恋文を書いて、その返事のないのを笑われているばかり。八條院の御所に来ても、女房とは上手く話しも出来ませんし、皆の気に入る話題もつくれない。
 隆信様のように、歌も絵も物語もおりにふれてご持参してこそ、女房連中から人気が上がるのです。
 そうなれば、貴人の耳にも評判は入ります。あの子は『女の噂になんかなんか、なりたくないよ』なんてうそぶいていますけど、こういう繋がりこそ大事なのですわ。」
「え、ええ・・」
 次々とまくしたてる健寿に、母はもう圧倒されてまともに返事も出来ないのであった。
 一体誰に似たのであろうかと、娘の将来も心配になる。もう少しおっとりと大様に構えてくれたらと、
「まあ、あの子の物語も評判になりましたし。」
と弁解してみると、
「それです。なんですかあの物語。
 松浦の宮、とか言うのでしょう。
 唐土で少の弁が恋をするなんて、まったく男の楽しみばかりです。難しい漢家のお話に、読めもしない名前の人物がどうしたこうしたなんて、風情のないこと。物語なんて、もの柔らかな姫と優しい貴公子が出てきて、困難な恋の道に迷うものです。そういうお話だからこそ、次はどうなるのか知りたくなるのですわ。
 古くさい万葉調の歌も耳障りですけど、帝妹とその母后との恋なんて、考えすぎですわ。いくら賢女と言っても、女の后が政などゆゆしいことですし。あまつさえ戦の場面なんて読みたいとも思いませんよ。
 それにやたら、母宮のことばかりうじうじと恋しがったりして、『侍従様の気持ちそのままじゃないかしら』と、女童の噂話を小耳に挟んだときには、心の蔵が止まりそうになりましたわ。あんな子供にまで、あの子の幼さを知られているのですから。」
 と十倍になって返ってくる。  口ではなんだかんだと言っても、ちゃんと読んでいるじゃないかと、言い返したら、きっと百倍になって返ってくるに違いなくて母は口を閉ざした。
「はぁ。」
「母上があの子に甘すぎるのですわ。私たち姉妹は、あの兄上とこの弟に恥をかかされ通しなのですよ。なんとか言ってやってくださいませ。
 母上の方からもご意見してくださらないと、寿命が縮むばかりです。このままだと私たちまで出仕できなくなります、恥ずかしくて。」
「ええ。まぁ。そうですわね。
 あなたが男に生まれてきた方が頼りがいがあったかも・・・」
「出来ることなら、そうなりたかったですわ。あの二人のことをみていると、私ならもっと上手に立ち回れるのにと、歯がゆくてしかたありません。
 いつまでたってもうだつがあがらなくて、我が家の将来が危ぶまれます。只でさえ今は世間事には敏感でいなければならないのに、のんびりとして困りものです。
 院の京極の姉上さまの所からも、御口入れしていただくように、申してくださいませ。いくらなさぬ仲の娘であっても、父上のお子には違いありませんから。こういうときのための我ら姉妹でございましょう。
 私の方はもう言葉も思いつかないほど、おりにふれて申し上げておりますのよ。これ以上申し上げては余計疎まれますわ。」

 健寿の言葉が尽きているとなれば、八條院の方ではもう手だてもないのだろうと思えて、さすがに母も困った顔をした。

「まま、越部から菓子が届いたのです。これでも召し上がれ。
 のども渇きましたでしょう。」
 そう言うと母は控えの女童に、目配せをして柑子をとりにやらせた。少ししてその女童が帰ってきたときまで、健寿は母相手に愚痴をこぼし続けていたのだった。
 よほど普段の宮仕えで、苦労をしているのであろうと、母はいたわってやりたかったのだが、少しの言葉も挟めぬまま、生返事のような相づちをうつだけであった。

 女童は幾つかの柑子を体裁良く並べた籠を抱えて戻ってきた。
「ささ、どうぞ。酸いのもありますが、甘いのも。」
と言うが早いか、御簾がばっさりと上げられて、中にどかどか入ってくる男がいる。
 定家であった。
「母上。このお歌を、見てくださいませ。
 頭弁殿から、今朝着きま、し・・・」
 上機嫌の定家は、ものすごい勢いで健寿に睨まれているのに、気づいて息を呑み、とたんにしゅんとした。
(まずい。この姉上は苦手なんだ。)
 首をすくめる定家に、柑子を持ったまま健寿は言った。
「侍従殿。物を仰るなら、もっと回りをよくご覧なされよ。
 目上ばかりの人の部屋に、先触れも付けず、こちらの支度も聞かず、突然入ってきて、その上立ちはだかって物を仰るとは、失礼千万。そんな行儀を誰から教わったのですか。」
「あ、いや、あの。
 と、とにかくこれを。一刻も早く母上にお目に掛けたくて、あの。」
 しどろもどろの定家の手から、和歌の書き付けてある懐紙を健寿は受け取ると、
「母上、ご覧くだされ。」
と恭しく渡してみせた。作法はさすがに流れるような優美さがあった。
「まあ。これは。」
「そうです。法皇さまからの御文です。どうやら父上のお歌が功を奏したようで。
 さすがに、父上の歌は素晴らしいですから。」
(なんですって。私たち姉妹が、躍起になってとりなしたことには、感謝もしないで、歌の力だけと思っているの。)と健寿は一層腹が立ったが、母と共に喜び合っている定家の姿に、さすがにそれは口に出さなかった。

 あしたづは霞を分けて帰るなり 迷ひし雲路今日や晴るらん

「その上、九條様にもお出入りが許されたのです。」
「まあまあ、それはありがたい。」
 二人して子供のように戯れ喜んでいる様子を見て、健寿は思った。
(私がしっかりしなくては。)
 柑子は少し酸っぱくて、そして、ほんのり甘かった。


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